連載
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本紙記者がのぞいた=亜国日系社会は今―2―=同朋救済や移民史編纂=在亜日系団体連合会=日系社会の調整役
6月27日(金) 在亜日系団体連合会(FANA・石川フリア会長)は、在亜日系社会の代表機関として、所属団体の機能調整役を果たす連合組織体である。 『アルゼンチン日本人移民史』によれば、亜国内の日本
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移住坂 神戸と海外移住(6)=収容所と対象的な建物=上流階級の「トア・ホテル」
6月26日(木) 「三ノ宮駅から山ノ手へ向かう赤土の坂道(中略)が丘に突き当たって行き詰まったところに、黄色い無装飾の大きなビルディングが建っている。後ろに赤松の丘を負い、右手は贅沢な尖塔をもったト
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本紙記者がのぞいた=亜国日系社会は今―1―=アルゼンチンの仙人=人里離れて40年=75歳の広島県人=人生の切ない終着駅
6月26日(木) 【ブエノスアイレス・堀江剛史記者】アルゼンチンの北方、ブラジルと国境を接し、イグアスの滝を有するミッショネス州。この地に四十年以上に渡って、原始的?な生活を続けている広島県人が
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移住坂 神戸と海外移住(5)=温く受け入れた神戸市民=「移民さん」身近な存在
6月25日(水) 地元の総力を挙げての誘致運動が功を奏した国立神戸移民収容所が、昭和三(一九二八年)三月に開設されたことにより、日本全国から移住者が神戸に集まる仕掛けが出来上がった。 移民収容所は
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移住坂 神戸と海外移住(4)=国立移民収容所の業務開始で=移民宿の経営深刻に
6月24日(火) 生粋の神戸っ子でも「城ケ口筋(じょうがぐちすじ)はどこにあるか」と聞かれてすぐ答えられる人は少ない。だが、震災前には「かき十」という牡蠣専門料理屋があったあの道、といえばたいていの
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移住坂 神戸と海外移住(3)=はしけで笠戸丸に乗船=大きな岸壁なかったので
6月21日(土) 第一回ブラジル移民船・笠戸丸は、契約移住者七百八十一人と、自由移住者、移民会社社長、通訳など計八百二人の乗客を乗せ、明治四十一(一九〇八)年四月二十八日午後五時五十五分神戸を出港し
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移住坂 神戸と海外移住(2)=岸壁は涙、涙の家族=万歳絶叫、学友見送る学生達
6月19日(木) 昭和三十年代の神戸港に、「三大見送り風景」といわれる名物風景があった。移民船、捕鯨船団、関西汽船(別府航路)の出港見送り風景である。移民船は月二~三回、捕鯨船団は年約二回、関西汽船
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移住坂―神戸と海外移住―(1)=履きなれない靴で=収容所(当時)から埠頭へ
6月18日(水) 「神戸から日本移民が出発したという史実を風化させてはならない」――三年ほど前、神戸市で、移民乗船記念碑建設や旧移住センター存続のための、市民運動を活発化させようという運動があった。
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由緒ある建物2館=県連、日帰りで訪問(下)=モジ箱根から富士山?=どこか神秘的なカザロン
6月14日(土) 博物館で予想外の面白さを楽しんだ県連日帰りモジ旅行一行は、一路、コクエラ植民地の「モジ箱根」(シッチオ松尾)へ。名前の由来は、五二年前に五人の有志が観音寺を作ったことに発するそう。
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由緒ある建物2館=県連、日帰りで訪問(上)=予想外の収穫 州立博物館=多い日系人関連の展示
6月13日(金) ボ――ッ、ボ――ッ。曇り空を突くような警笛が鳴り響く――。蒸気機関車は徐々にスピードを落とした。 「次の停車駅はサンパウロ、サンパウロ――。移民収容所です。日本移民のみなさん、よ