連載
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第20回
「O orangontango」はオランウータンのこと。綱渡りをしたり、高い所で曲技をする様子が公演のテーマにしたと思われる。「O Encanto – delicada fantasia
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第19回=ついに万次本人の顔写真発見
オリメシャ一族のことをネット検索している過程で、気になる名前がでてきた。オリメシャ家と並ぶ日本に血筋を持つサーカス一族として「Familia Mange」が頻繁にでてくるのをみて、「もしかして万次の
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第18回=オリメシャ家の華麗な活躍
Funarte(国立芸術基金)の機関誌『Programacao Funarte』87年4月号9頁には、多くの外国系サーカス移民の名と共にオリメシャや竹沢をあげ、《結局、世界中からここにアーチストたち
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=一世紀半も受け継がれる家=第17回
ブラジルの早竹虎吉も、竹沢万次同様、同じ一座でやっていた〃近い筋〃のものが名乗っていた可能性が高い。 ブラジルに来た「フランキ・オリメシャ」は1854年に大阪で生まれたと伝承されているから、1867
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第16回=幕末の軽業二名人がブラジルに?
『CIRCO-TEATRO NO SEMI-ARIDO BAIANO (1911-1942)(バイアの半砂漠地帯のサーカス劇場=1911~1942年)』(レジナルド・カルバーリョ著、09年、バイア連
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第15回=「オリメシャ」とは誰か?
ブラジルの竹沢万次の消息を探して、ネット検索を続けるうちに、なんと、今まで日本移民史にはまったく現れてこなかった日本人軽業師の名前が出てきた。 論文『(芸術、サーカスと体育)』(Unicamp、マリ
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第14回=意外なところにラモンの消息
鈴木南樹の記述によれば、ブラジルの竹沢万次は息子「東郷ラモン」に「Circo Imperial Japones」(日本帝国サーカス)一座を引き継いだ。ネットで検索するうちに、その消息が意外なところで
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第13回=世界最大のサーカスがコンデ街に
突然だが、話は二十世紀に移る――。竹沢万次とは関係がないが、世界最大のサーカスが戦前、サンパウロ市の日本人集団地「コンデ街」にやってきた逸話は、日伯交流史には欠かせない。 1934年8月3日から、当
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第12回=ブラジル芸人初訪日は1887年か
さらに調べてみると、サーカス事典シルコペディア(21日参照、www.circopedia.org/Giuseppe_Chiarini)によれば、チャリニCの1874年の極東巡業時に関して《一座はあま
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第11回=実は意外に多い日本人同行者
大武和三郎(当時17歳)は1889年7月、横浜に寄港したアルミランテ・バローゾ号のアウグスト・レオポルド殿下に気に入られ、同乗を許された。太平洋横断中に「帝政崩壊」となったが、翌90年7月にリオへ無