連載
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(99)
勝山さんは「正直、真面目、勤勉……」と言って、一寸困った様に笑った。言わんとすることを、適格に表現できないもどかしさを覚えているようだった。 筆者が、ある知人から聞いた話を思い出して、「昔の親は、皆
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(98)
2014年のマリンガ日本公園落成式で、抱き合って喜ぶプピン市長とバーロス前市長誰が、何故、日本語学校を再開したか? ずっと昔からの緩慢な趨勢であるが、特に近年、各地で日本語学校の閉校が多い。ところが
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(97)
巨大日本庭園? 出稼ぎ帰りの中には――マリンガー出身者以外でも――ここに居を求める人が多い。ただし仕事は、農業を選ぶ人はいない。 マリンガー文化体育協会、略称アセマの会員は900人。毎年、日本文化週
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第10回=南樹と符号するチャリニ同行説
ロペス論文によれば、チャリニCの第1回南米巡業ではチリ、亜国から北上して1871年~72年に南大河州、リオ、バイア、ペルナンブッコ、パラーと北上した。 第2回南米巡業では1875年10月~77年5月
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第9回=チャリニ曲馬団同行説
万次がいつ、どうやって渡伯したのか――この謎を解くカギはどこにあるのか。鈴木南樹は「1870年頃」に来たと書くが、どうやって来たかに触れていない。今まで見てきた中で、考えられるのは次の三つだ。【サツ
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第8回=三好「本筋の人間ではない」
当時の芸の具体的なイメージが湧かない。 1886年にブラジルのエスタード紙の広告で「手のひら40個分の怪物〃日本の階段〃(A escada japoneza)。つま先で均衡を保ち、上に子供を載せる曲
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第7回=幕末、米大統領に歓待された芸人
『サ物語』の三好によれば、日本への西洋サーカスの初上陸は、幕末の文久4(1864)年3~5月に横浜で興行をした米国リズリー・サーカス一座だという。黒船が大砲を振りかざしてむりやり開国させた後、グロー
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第6回=江戸末期の超人気芸人「万治」
19世紀末、ペルーにも日本人軽業師は巡業していたようだ。アルゼンチンの『日本移民発祥の地コルドバ』(大城徹三著、1997年)によれば、《ペルーのリマに軽業師一座が二回来ている。二回目は一八八八年二月
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(96)
これは、メジャーと契約して営農して来た生産者に共通する悔しさであろう。つまり、最初、メジャー側からウマイ話を持ちかけられて契約し、セレアイスを植えた。しばらくは好調に行った。 が、彼らが巧みに生産者
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(95)
マリンガー すでに記した通り、北パラナ土地=開発=会社は、ロンドリーナの西方に、多数の植民地をつくった。その内の三十数カ所に日本人が入植した。 しかし資料類で調べた限りでは、そこに興味深い人物やドラ