連載
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第5回=サンパウロ市に文化をもたらしたサーカス
前節でエスタード紙1886(明治19)年9月4日付の「コンパニア・ジャポネーザが、サンジョゼ劇場で様々な演目を行う」と紹介した。このサンジョゼ劇場は現在、存在しない。 ヴェージャSP電子版(veja
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第4回=1886年にサンパウロ市で絶賛された一座
ウルグアイ、アルゼンチンで公演しているなら、当然ブラジルでもしているはず――と考え、サンパウロ州で一番古くて現存する新聞「エスタード・デ・サンパウロ」紙のデジタル・アーカイブ(電子書庫)で探してみた
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(94)
ともあれ、インテグラーダ側が否定する以上、(コチアが生き返った!)という捉え方は、筆者の感傷が生んだ幻覚であったことになる。 消えた白い雲とは全く別の新しい白い雲が、北パラナの青空高く浮かんでいる―
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第3回=1873年に亜国で公演
江戸末期から明治最初の頃の軽業師は日本の民間人初の洋行者であり、日本独特の文化を見せてお金を稼ぐ文化的ビジネスの大成功者だった。 鈴木南樹の記述には《ウルグアイ、アルゼンチンまで股にかけて興行してま
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(93)
そうした中で、北パラナ単協の組合員たちは、諦めなかった。1995年末、全く新しい組合インテグラーダを設立、起死回生を図った。これには、同単協に属していた22レジョナル(地域)の内14レジョナルが参加
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第2回=拳銃自殺図った悲劇の芸人ラモン
1870年といえば、明治3年――維新政府発足間もないころ、笠戸丸より38年も古い。そんなころにブラジルに上陸した日本人とは、どんな人々だったのか。 藤崎商会の藤崎三郎助以外に、もう一人だけ直接に万次
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第1回=明治3年頃に上陸、全伯公演?
国交を開いた「日伯通商修好航海条約」(1895年)が調印される遥か前から、ブラジルに住んでいた日本人が何人かいた。いわゆる「農業移民」ではない。当地初とおぼしき「日本人自由渡航者」に軽業師「竹沢万次
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(92)
チバジー河以西の日系人は元々、小農であった。大型化・機械化など簡単に出来ることではなかった。ために土地を売って離農する人が多く出た。偶々、運に恵まれ資金を蓄えていた人が、それを買い、規模を拡大、機械
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(91)
一つ一つ手放し… そのうち、幸い、アリアンサの職員白戸和子さんや農産組合インテグラーダの幹部職員大原シロウ(四郎)さんが、柞磨宗一の縁者、前田パウロ氏を探し出し、事情を聞き、筆者に伝えてくれた。 前
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(90)
筆者は「一章 カンバラー」以降、アルマゼン、特に仲買で財を成した人々のことに繰返し触れてきたが、柞磨宗一も、その道を歩み始めていた。カフェー精選工場、精綿工場も開業した。これは仲買を本格化したことを