連載
-
『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(89)
続けてブラジルの各界への日系人進出の第一号は皆、土佐の二世であると、その名前を列挙、自分の長男の名を医学界に於けるそれとして、臆面もなく記している。 この時82歳であった。以後も達者に自画自賛を続け
-
『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(88)
土地代の支払いは3年賦だったが、入植者の都合によっては、5年賦とするようトーマスに交渉、承諾させた。3年間滞納すると土地は没収ということになっていたが、没収された者はいなかった。氏原の力だった。 さ
-
『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(87)
彼の明るく個性的な性格は、非日系の社員たちから好かれたという。 仕事は、会社の植民地のロッテの販売だった。見込み客は、主にサンパウロ州に居る同胞だった。彼が、1930年、ロンドリーナの植民地へ、その
-
『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(86)
氏原は、生まれつき天真爛漫で、かつ生涯そうであった。1962年、吉田茂元首相がブラジルを訪れたことがある。サンパウロの飛行場で、タラップを降りてくる元首相に、下に居った出迎え人の中から、氏原が第一声
-
『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(85)
メスキッタ帰る 終戦後、鉄道工事は再開された。が、この間、北パラナ土地会社に、大異変が起きていた。 ここで「一章 カンバラー」で紹介したガストン・メスキッタに再登場して貰う。1936年、彼は北パラ
-
『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(84)
ロッテは、すべて小農用だった。大農用のロッテはなかった。一人の買い手が複数のロッテを買う場合は、数を制限した。多数の小農業者向け分譲が眼目であったからだ。その方が会社としても効率的だった。 ロッテは
-
『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(83)
翌日、測量隊の一部はジャタイまで戻り、残りの荷物を何回にも分けてトゥレス・ボッカスまで運んだ。時にはオウリーニョスまで行き、必要な物資を調達してきた。その中には3千枚のトタン板もあった。 トゥレス・
-
『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(82)
終章 チバジー河以西 一資料に、「北パラナの開発史はチバジー河を境として、東西に大別して観察すべきである」と記されている。実際、その通りであろう。 東側は、前章までに記したカンバラーからウライーま
-
『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(81)
市長解任 ところが、2011年、この市村之が、93歳という高齢で務めていたウライー市長職を、市議会から解任される(!)という信じ難いスキャンダルが突発した。 解任前は、90歳を越す市長ということで、
-
『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(80)
終戦直後の1946年12月、サンパウロから藤平正義という男がやってきて、残り少なくなっていたラミーの事業化を企て、精製工場をつくった。 藤平のことは拙著『百年の水流』改訂版で触れた。終戦直後の勝ち組