連載
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(79)
目論見、狂う 1937年、矢崎節夫という長野県人の土地売りが、ピリアニットの8千アルケーレスの分譲を請け負った。残りの1千アルケーレスは、南米土地の直営地とされた。 矢崎は8千アルケーレスをロッテア
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(78)
政府は、一方で(山科と連携して)財界人に、ブラジルでの大型農場や植民地の建設を要請した。この点も筆者の「読み」である。が、1926年以降、野村徳七、今井五介、岩崎久彌、川西清兵衛、武藤山治、後宮信太
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(77)
六章 ウライー山科禮蔵の奔走 山伐り請負業者、西村市助がトゥレス・バーラスの樹海に、最初の斧を入れた1932年から4年後――。 その北隣のコンゴニャス河畔(現ウライー市)で、やはり日本人による大型の
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(76)
ハンセン病患者の救済に献身 この佐々木神父、どういう人なのだろうか? 1930年、浜松市に生れた。家族は曽祖父の代からカトリックの信者だった。母方の祖父と叔父は歯科医で、無料奉仕でハンセン病患者の歯
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(75)
総てはピストルで… この町には、古くから有力なファミリアが居った。コスタ、ペルソ、メーロという姓で、メーロは3家あった。これが土地の境界線争いなどで、戦ったり手を組んだりした。サンジェロニモのバンギ
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(74)
ブランドン判事 もう一人が、こう追加した。 「昔、クリチーバに行った時、サンジェロニモの町の名を出したら『アア、人殺しとライ病の町……』と言われた。 1970年代までは、事件が多かった。判事も検事も
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静岡県菊川市=外国人児童の教育現場は今=人格形成と社会適応の現実=(10、最終回)=幸せに生きられる居場所
焼津市の賛同を得られず、同教室が閉められる知らせは、子供たちにとっても講師たちにとっても、非常に残念な知らせとなった。 「どうにかしてくれるでしょ、と周りに言われるが、さすがに厳しい」と山下さん。「
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(73)
戦争が終わると、禁止令が解けてもいないのに再開、教員会までつくって半ば公然と活動した。 ために1951年8月、州政府の学務局から停止命令が下った。それでも続けようとし、学務局と交渉して始めた。が、再
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静岡県菊川市=外国人児童の教育現場は今=人格形成と社会適応の現実=(9)=子供たちの心はぎりぎりに
1年ぶりの先生との再会に、日本語でのおしゃべりが止まらないのはナラ・ユナ・エミリーさん(中1)。昨年ルーマニアから来日し、焼津の教室で学んだ。「最初はこんにちは、ありがとう、おなかすいた、しかわから
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(72)
今や日系は10パーセント 1957年、入植25周年を機に実施された人口調査に、それが現れている。この調査は、ブラ拓が造った区のみを対象としているが、住民は日本人・日系人1万1000人に対し、非日系2