連載
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(28)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
波頭の上に… 1955年のコチア青年の導入開始後、組合員の出荷総量は伸び続けた。下元の目論見は当たったのである。 1957年4月、コチア産組は創立30周年を記念して――ジャグアレー区に入手した土地
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(27)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
謎の奇策二件(下) 次に、もう一件の新政策であるが――。 コチア青年の導入が始まった1955年、下元はジャグァレー区の肥料・飼料工場に隣接する6万平方メートルの土地を購入しようとした。 それを聞
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(26)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
謎の奇策二件(上) 1950年代、コチア産組専務理事・下元健吉は、新政策を二件、打ち出した。いずれも誰も予想しておらず、理解もできなかった――という意味で奇策であった。 一件は日本からの大量の青年
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(25)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
マズかった南銀との絶交 南銀としては、コチアは、そこで動く金の量からしても、是非欲しい顧客であった。が、下元がそうであったため、1957年の彼の死後も、後継者は南銀との取引はしなかった。 そのコチ
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(24)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
〃足〃で書かなかった邦字新聞 パウリスタ新聞は、経営面でもゴタゴタが続いた。下元が乗り出したが、うまく行かず投げ出してしまった。つまり下元は、ここでも失敗している。 なお付記しておけば、パウリス
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(23)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
付記すれば、この間、信念派が大量に拘留されていたDOPSや未決囚拘置所に、コチアのマークを車体に記したカミニョン(トラック)が出入りする姿が、拘留者から目撃されている。 それを見て、常盤ホテルの集
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(22)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
1946年4月1日、サンパウロ市内で認識運動の指導者格だった古谷重綱、野村忠三郎が襲撃され、野村が落命した。 その直後、ポ語新聞は一斉に臣道聯盟の特攻隊のテロだと報じた。これは誤報であったが、
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(21)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
常盤ホテルの集会のすぐ後、日本の外務大臣から国際赤十字社を経て、邦人社会向けの電報が送信されてきた。終戦の詔勅の写し(ただし英文)であった。 これを敗戦派の有志が、広報することになった。彼らは、詔
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(20)
右の騒乱は、実は、その前哨戦の様なものが、戦時中に始まっていた。1943年から地方の邦人農家が襲撃されるという事件が頻発していたのである。 各地で養蚕舎が焼き討ちされたり、薄荷畑やその油の抽出機具
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(19)
乱調 下元健吉の生涯は、成功と失敗の繰り返しであった。それが起伏が大きく激しい波の様に続いた。 戦中は、打つ手打つ手が当たり、危機を事業面での飛躍という奇跡的現象に転換させた。 これは1934年