連載
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第11回=サントス強制立退き令の悲劇
『戦野』は戦中のどんな〃ブラジルの機密を暴露〃していたのか――。 『戦野』の第1章1節の見出しのみを羅列すると「日ブラジル交断絶」「資金凍結下の苦闘」「日本語教育受難」「日本人農家五十家族立退命令」
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第10回=ブラジルの機密を暴露
「岸本さんは教育者的だった」と多くの人が印象を証言している通り、岸本昂一は1939(昭和14)年、日本の帝国教育会から在外日本人教育功労者表彰(1941年、『ブラジルにおける邦人発展史』下巻、204
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(50)
たった6家族! この時も山口が活躍した。斉藤と職員一名を連れ、兵士に見つからぬ様、隘路を選んで州境のパラナパネマ河畔に出、そこから丸木舟で対岸に渡った──と資料類にはある。が、これは河畔で住民を探し
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第9回=二世公証翻訳人Yとは誰か
53年10月の国外追放裁判の第2審で無罪判決が下された後、《これで事件は完了していたものと思っていたところ、「貴下の帰化権が剥奪されることになつたから、至急異議申し立ての手続きをしなければならない」
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(49)
西村は、仁王に似た体格の持ち主で、破(われ)鐘の様な声で人を使った。一方で可愛がった。それについては、彼の下で働いていた勝田卯太郎の話が、文字になって残っている。それによると──。 最初、西村が勝田
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第8回=認識派新聞からの妨害工作
書名の〃戦野〃という言葉にどこか物々しい印象を受ける。第2次大戦では直接の戦場にならなかったブラジルなのに、日本移民には〃戦場〃だと感じさせる何かがあった。もちろん岸本が信仰するキリスト教プロテスタ
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(48)
次いで、もう一カ所、候補となったのがトゥレス・バーラスであった。当時、北パラナは豊饒な大地が無限に広がる開発前線として、世の関心を惹き付けていた。梅谷は興味を抱いたが、日本へ帰国の日時が迫っていた。
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第7回=温厚な教育者と危険人物の狭間
日本移民で唯一「国家の危険人物」として禁書にされた岸本の写真が、今も高々と掲げられている公的な場所がある。サンパウロ市の新潟県人会館入り口だ。岸本は1969年2月から71年1月まで第3代会長を務めた
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=(47)
五章 アサイ 三本の金塊 その昔、北パラナに「トゥレス・バーラス」という名の、かなり広い私有地があった。といっても、1930年代の初めまでは、ここも、やはり原始林であったが……。 2015年現在、
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第6回=家族にもタブーだった裁判
暁星学園同窓会から岸本昂一について調べ始め、次々に興味深い事実が浮かび上がってきた。取材した卒業生は「岸本先生は永住論者、認識派だった」と口を揃えた。 ところが54年頃からパ紙で記者をしていた若松孝