連載
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(18)
話を戻すが、役員をブラジル人に入れ代える時、下元は「経営の実権は、この俺がシッカリ握る」と周囲に明言していた。が、多くの組合員は危ぶんでいた。結果的には、補佐役に過ぎない下元が、役員を駆使しているの
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(17)
下元は政府の圧迫を見事切り抜けた。が、圧迫はこれで終わりではなかった。 執拗なことに、別方面からも来たのだ。在サンパウロ米国総領事館が、関係機関に干渉、コチアに対するガソリンの配給を止めさせたので
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(16)
全伯産青連の委員長になった下元健吉は、新社会建設に着手した。 彼は燃えていた。一資料によれば「コチアの経営は人に任せ、自分が中央会に乗り込んで、本格的に取り組もう」とすら考えていたという。「乗り込
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(15)
産青連(下) 1938年、下元健吉は動き始めた。中央会に属する組合を各地に訪れ、若者に産組論を説き、目標を与え奮起させ、結集させようとした。 1939年の年頭には、コチアの機関誌で、こう唱えている
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(14)
産青連(上) 年輩の組合員がそうであったため、下元は若者に期待した。 折から、日本では産業組合の改革運動が、農村の青年によって活発に展開され、全国的な広がりを見せていた。彼らは産業組合青年連盟(産
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(13)
巨大化を目指す 下元が増資積立金制度を作ったのは、施設拡充のためであったが、実は、別の目的もあった。コチアを巨大化させようとしていたのである。 ここで、話を進める都合上、これまでの流れを振り返って
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下元健吉の創造心の話を続ける――。 1936年、彼はコチアに「増資積立金」という制度を作った。これは「組合員の出荷物の売上げの一部を天引きして積み立て、組合の資本金に組み入れる」というシステムであ
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1938年末、コチア産組の業容は、次の様になっていた。 組合員は1500人。約1割が非日系人。その営農地はサンパウロ市近郊、州西部。じゃがいも、蔬菜(トマトその他)を主に綿、鶏卵などを生産・出荷。
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1934年の暮れ近く、またも危機が襲った。11月、ピニェイロスの市場(いちば)で、仲買人がコチアのバタタをボイコットし始めたのである。カリネイロ(手押し車で売り歩く小商人)まで引き込んで、この挙に出
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13組合員の特別出資金の醵出で救われた下元健吉であったが、以後も采配の乱れは続いた。 1932年、会計理事が自分の農場で使う資材を、勝手に先払いで組合の購買部から購入、それが常識外の額になっていた