連載
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3・11特別企画=原発事故をきっかけにゴイアス移住した日本人=西牟田靖=(中)=放射能汚染事故現場を訪ねる=「私の過去が放射能ゴミに」
一條直子さんは夫のルシアノさんとともに、2011年3月の震災を機会にゴイアス州へと移り住んだ。そのゴイアス州ではかつて大規模な放射能汚染事故が起こっている。1987年9月~10月のゴイアニア被ばく事
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3・11特別企画=原発事故をきっかけにゴイアス移住した日本人=西牟田靖(にしむたやすし)=(上)=震災直後、家族と猫2匹で=母「あの家で死にたい」
ノンフィクション作家の西牟田靖さん(45、大阪)=東京在住=が放射能汚染の危険な事例や、ハイパーインフレ時代の生活観などを取材するため2月8日に来伯した折、本紙への寄稿を依頼すると心良く了解し、帰国
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(10・終わり)=二つの名器が奏でる調べ
『伯謡会の回顧』(84年)で鈴木威は《私は小鼓を二丁持っています。一丁は母の親ゆづり、もう一丁は脇山大佐が凶弾に斃れる数日前、吉川中佐の手を経て私に贈られたものです》(108頁)と書く。 終戦勅諭に
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(9)=認識派に祭り上げられた脇山
吉川は勝ち組から祭り上げられたが、その盟友である脇山甚作バストス産業組合長(陸軍大佐)は逆に認識派から持ち上げられた。 皇紀二千六百(1940)年には全伯産業組合の代表として招聘されて帰朝し、帝都の
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(8)=「中佐に頼るべきではない」
丹念な取材を積み重ねた末に書かれた『百年の水流』で外山脩は、暗殺事件の実行関係者の一人、押岩嵩雄(1947年1月の森田芳一の甥ご札事件の関係者)から次のような驚くべき証言を引き出している。 押岩は臣
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(7)=勝ち組の救世主に祭り上げられ
〃吉川精神〃は1944年10月、獄中で書かれた。早田さんに「吉川は獄中の話をしなかったか」と尋ねると「聞いたことない」と答えた。「戦争中に警察に連れていかれた。拷問されたという話は聞かなかった。でも
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(6)=吉川が〃賛同〃したものとは
『十年史』で「薄荷国賊論」と単純化されて表現されたものは、戦中に獄中で吉川が書いた古い文体の文書のことのようだ。『日本移民八十年史』(編纂委員会、91年)によれば1944年10月に書かれたもので、1
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(5)=理屈っぽい謡曲教師の姿
早田さんは「吉川さんは洗濯屋の仕事は手伝わないが台所を良くやってくれた、軍隊式でね。今日は何と一週間分の献立を表にして貼り出し、その通りに作った。家族の分全員を作ってくれ、けっこう美味しかったんです
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(4)=棉作諦め洗濯屋「アジア」に
早田さんは「吉川家は1934、5年に渡伯してきましたが、その直前に私だけを残して家族は帰り、東京で暮らしていたそうです」という。「父は『性に合わない、ブラジルは嫌だ』って帰ってしまった。帰るお金はと
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ガウショ物語=(11)=底なし沼のバラ=<3>=襲いかかる大男から逃げる娘
ちょうど、こうした出来事が起こっているころにアンドレ軍曹がやって来て、間もなく結婚の噂が広まったというわけだ。 シッコンは口から泡を噴くほど憤慨した……馬に八つ当たりし、犬どもには鞭が飛び、弟たちは