連載
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(8)
奇妙ないきさつで理事長になった下元健吉であったが、その運勢は下げ潮に転じた。 まず、組合経営の采配が乱れ続けた。経営というものに関しては、全く未経験だったのだから、最初から巧く行く筈はないのだが、
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(7)
いきなり、理事長に! 1927年末、コチア産組が創立された時、当然、役員も選出された。その時、初代理事長になったのが、なんと下元健吉であった。 29歳であり、組合員の中では若手だった。しかも未だ独
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(6)
いごっそう ビーラ・コチアに次いで各地に、総領事館の支援によって、邦人産組が次々と生まれた。だが、これらは総て館の奨めと指導によって、そうした。コチアは1918年以降、自ら企て、何度も失敗しながら、
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(5)
ビーラ・コチアのバタテイロを産組設立に駆り立てた直接的キッカケは、仲買人の不正であった。 バタテイロは収穫したじゃがいもを、サンパウロ市内ピニェイロス区の青空市場まで運び、非日系の仲買人に相対取引
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(4)
1922年、下元家は漸く土地を買うことができた。じゃがいもの市況が良かったのだ。日本を出てから8年が過ぎていた。 加えて、健吉が殊勲を挙げた。 当時、モイーニョ・ヴェーリョのバタテイロ(ジャガイ
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(3)
下元一家が味わった苦痛は、実は日本移民の多くが経験したことであった。「金の成る木」は嘘であった。しかも、その宣伝もしくは噂を誰が流したか判らなかった。そのため、苦情を持って行く先がなかった。 実際
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(2)
半世紀以上も昔のことであるが、筆者はある人物の壮年期の顔写真を初めて見た時、小さな衝撃を受けた(凄い面構えだ!)と。巌の様な骨相であった。眉は長く太く、口も大きく、鼻と頬骨とあごが突き出し、写真であ
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(1)
今、コロニアは消えつつある。残り火はわずかでしかない。 新たな日系コミュニティ(コムニダーデ)形成の流れは存在するが、まだ水勢は弱い。強くしなければならない。そのための効果的な方法、つまり“鍵”を
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復興する福島を海外に伝える=移住者子弟の受入研修=(8)=国と母県の友好の懸け橋へ
研修生が最も興味津々だったのが、ブラジルにポルトガル人が来るより前、今から約630年前に造営された『鶴ヶ城』だ。会津若松市のシンボルといえる歴史的建造物だ。 城の中心的な建物である天守を見上げ、そ
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復興する福島を海外に伝える=移住者子弟の受入研修=(7)=「福島は大丈夫と伝えたい」
野口英世はアメリカのロックフェラー医学研究所を拠点に、世界で活躍した福島県人だ。彼が生きていた当時、中南米では黄熱病が猛威を振るっており、その研究のためにエクアドル、メキシコ、ペルー、ブラジルを次々