連載
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コスモポリス=1929年のサンパウロ=ギリェルメ・デ・アルメイダ=訳・中田みちよ=古川恵子=(5)=人形の街
人形の街。 別の子ども。別の女。別の男。また別の子ども。また別の女。また別の男、誰も彼も人形だ。いつもフジタ《註=藤田嗣治(つぐはる、1886―1968)東京生まれ。洋画家。第2次大戦後フランスに帰
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コスモポリス=1929年のサンパウロ=ギリェルメ・デ・アルメイダ=訳・中田みちよ=古川恵子=(4)=人形の街――日本移民
・・子どものときに想像したこと。 「こここに深い穴を掘って、掘って、深く、ものすごい深い穴を掘って、地球をつきぬけて、その中にあたまから落ちてズーズーズ、ポーン。一丁上がり。とうまい具合に向こう側の
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コスモポリス=1929年のサンパウロ=ギリェルメ・デ・アルメイダ=訳・中田みちよ=古川恵子=(3)=ハンガリー・ラプソデイー
白い漆喰の塗られた待合室に、飾られた色とりどりの紙の鎖と風船。カラフルだ。はじける大きな音。高い壇上にはファランドールを奏でるための二つのアコーデイオン。アコーデイオンとニチヨービ。長音が二つでぴっ
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コスモポリス=1929年のサンパウロ=ギリェルメ・デ・アルメイダ=訳・中田みちよ=古川恵子=(2)=ハンガリー・ラプソデイー
コンパス・ローズ《註=「風のローズ」羅針盤の意》。モッカ区の高台。この高台にはサンパウロ中の風が住んでいる。 オラトリオ(祭壇)街。街でもなく、祭壇もない長い上り坂。疲れて足を引きずってしまう。登ろ
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コスモポリス=1929年のサンパウロ=ギリェルメ・デ・アルメイダ=訳・中田みちよ=古川恵子=(1)=なぜ上梓したかって?
ついこの間、ある友人にいわれた。 「ほら、おぼえているかい、外国移民たちが住むサンパウロの各地区について書いたルポ・シリーズがあっただろう? 確か『エスタード』紙(註1)で、記憶違いでなければ192
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「ギリェルメ・デ・アルメイダ館」に寄せて=中田みちよ=(3)=蘇る「古き良きサンパウロ」
理想の女性にめぐり合ったギリェルメは足げくリオに通い翌年、婚約した。結婚したのは1923年9月でリオに住むことになった。 「結婚と同時にリオに移ったが、26年にサンパウロに戻り、パドレ・アンシェタ
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「ギリェルメ・デ・アルメイダ館」に寄せて=中田みちよ=(2)=バビー夫人との出会い
2008年に日伯文化連盟が日本移民百周年を記念して、ギリェルメ・デ・アルメイダ賞と銘打った『論文』を募った。社会上昇を願うばかりだった日系社会も、100年を経過したのだから、文化的なものに眼を向けな
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「ギリェルメ・デ・アルメイダ館」に寄せて=中田みちよ=(1)
中田みちよさんと古川恵子さんが『コスモポリス 1929年のサンパウロ』(ギリェルメ・デ・アルメイダ著)を全訳した。サンパウロ市400年祭の総裁、日伯文化連盟の初代会長を務めたあの詩人アルメイダの作品
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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(23・終)=在伯同胞の心に大きな灯り=帰国翌年に黄綬褒章授与
気丈な女性として知られた妻マツは、夫安太郎を看取った後、子供たちと暮らすために一人で再びブラジルに戻り、93歳で亡くなるまでクイアバで過ごした。 マリリア在住者によれば松原耕地の初期のころ、コロノへ
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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(22)=戦後の1割は松原の恩恵に=グアタパラや南伯移民も
大谷晃を特許人とする松原移民枠を使って、サンパウロ州だけで1678人が入っており、実は麻州やバイーア州より多い。バイーア州は最初のウナこそ問題が起きたが、1959年以降だけで636人も続けて入った。