連載
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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(21)=日本の国会でも松原議題に=大谷晃に引継がれた移民枠
実は、松原に関わる移民政策が日本の国会でも議題になった。病身の松原が和歌山に帰郷する直前、第22回国会の内閣委員会(1955年6月16日)の議事録によれば、次のようなやり取りがあった。 内閣委員会の
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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(20)=「生まれ故郷で死にたい」=失意のまま妻と療養に帰郷
松原が横浜正金銀行の大谷晃と知り合い、その凍結資金を一時的に移民事業に流用する計画を練ったが、ヴァルガスから拒否された―と志村が書いている件に関し、大宅壮一はこう書いた。 《戦時中に凍結されていた正
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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(19)=ヴァルガス自殺を聞き脳溢血=悪評ばら撒かれ松原転落へ
1954年9月30日付パ紙では、松原の資金が反ヴァルガス派議員から《一部が人殺し謝礼金として使われていることは明らかな事実である》とまで書かれた。そこに、松原側からの反論のコメントはない。 後世から
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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(18)=ヴァルガス自殺で後ろ盾失う=松原の懐から政敵暗殺資金?
松原の日本移民再導入が許可された時、《これはコロニア内で態度不明だった新聞(編註=戦勝派新聞のこと)も朗報として大々的に報道した。戦勝論者の中から「移民導入不要論」の噴煙が揚がるかと思ったが、不思議
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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(17)=松原追って訪日する宮坂国人=横浜正銀の凍結金を流用?
松原がヴァルガス大統領からの移民導入許可を携えて、1952年11月に日本に赴くという報道が流れた時、《コロニアの元老達は「松原は何者ぞ」と慌てふためいた。早速元老達の会合が召集された。急報に接して集
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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(16)=ヴァルガスに200コントス=大統領選挙の運動費に大枚
『志村啓夫文書2012』(岸本晟編集、278~287頁)によれば、終戦直後の軍部クーデターで失脚し、意気消沈して南大河州で暮らしていたヴァルガスを、1950年末の大統領選挙に出馬するように促した一人
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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(15)=志村啓夫文書が明かす逸話=アルキメデスの失踪の謎
この連載に関し、人文研の宮尾進元所長から「松原については、元コチア職員の志村啓夫(ひろお)さんが相当詳しいものを書いている」との指摘を受け、『志村啓夫文書2012』(岸本晟(あきら)編集)を調べてみ
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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(14)=回収不能な移民への貸付け=ウナ脱耕で莫大な賠償金請求
ウナ植民地は、実はいわくつきの場所だと『曠野の星』は書いている。いわく《ウーナは今から三十五年前(編註=1929年)ドイツ移民が入って、河畔の近くに家を建て、原始林を開拓してカカオ、ゴムなどを植付け
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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(13)=約束守られないドウラードス=渡伯一月でスト、前代未聞のウナ
戦後移民の第一便は1953年2月、アマゾン移民17家族がリオに到着、同7月7日に松原移民枠でドウラードス植民地に入る22家族112人が入った。3次に分かれ、総計は和歌山県人54家族、岡山県人10家族
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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(12)=シングー公園との隠れた関係=すぐ隣には有名なカッペン
ヴァルガスは独裁政権時代の1943年、広大な〃未開〃地域だった中西部に道を開いて開拓入植する「西への行進」(Marcha para o Oeste)運動を始めた。 その過程で大活躍したヴィラス・ボ