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笠戸丸 関連記事

軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=一世紀半も受け継がれる家=第17回

現在もサーカスに出演するオリメシャ一族のフェイスブックの経歴ページ(https://www.facebook.com/Olimecha.Family/info/?tab=page_info)

 ブラジルの早竹虎吉も、竹沢万次同様、同じ一座でやっていた〃近い筋〃のものが名乗っていた可能性が高い。 ブラジルに来た「フランキ・オリメシャ」は1854年に大阪で生まれたと伝承されているから、1867年に米国公演した時に座長なので、13歳ではオカシイ。年齢的には渡米時に早竹虎吉一座に参加した子供芸人ではないかと思える。 それなら ...

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皇室ご来伯を期待するアルバレス・マッシャード

 「110周年皇室の来伯実現へ動き出している」―昨日付で報じたノロエステ連合の安永信一新会長は力強く話した。ノロエステ線以外にも期待される地域がある。 6日の総会を前に、別件の取材で奥ソロのアルバレス・マッシャード日本人会の催しで会員と話す機会があった。笠戸丸到着から10年後の18年ブレジョン植民地として開拓が始まっている。 日 ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第14回=意外なところにラモンの消息

日本帝国サーカスのエピソードが書かれたカラチンガ教会サイト

 鈴木南樹の記述によれば、ブラジルの竹沢万次は息子「東郷ラモン」に「Circo Imperial Japones」(日本帝国サーカス)一座を引き継いだ。ネットで検索するうちに、その消息が意外なところで見つかった。 ミナス州都ベロ・オリゾンテから東に300キロほど離れたカラチンガのカトリック教会サイトの歴史頁(15年11月29日参 ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第11回=実は意外に多い日本人同行者

曲芸師川村駒治郎(『サ物語』203頁)

 大武和三郎(当時17歳)は1889年7月、横浜に寄港したアルミランテ・バローゾ号のアウグスト・レオポルド殿下に気に入られ、同乗を許された。太平洋横断中に「帝政崩壊」となったが、翌90年7月にリオへ無事に帰港した。この大武が、笠戸丸以前の代表的な〃神代の世代〃の人物であり、戦前移民の多くが世話になった『葡和辞典』(1918年)を ...

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池田さん日系初の会員に=科学芸術歴史文学アカデミー

2月28日の入会祝賀会の様子

 元連邦警察所長の池田マリオさんが先月28日、「ブラジル科学芸術歴史文学アカデミー(Abrasci – Academia Brasileira de Ciencias, Artes, Historia e Literatura)」に日系人として初入会を果たした。 連邦直轄区裁判所(TKDFT)サイトに掲載された昨年2 ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第5回=サンパウロ市に文化をもたらしたサーカス

日本人軽業師が公演した旧サンジョゼ劇場は、19世紀の聖市における文化の中心。焼失する前の貴重な写真

 前節でエスタード紙1886(明治19)年9月4日付の「コンパニア・ジャポネーザが、サンジョゼ劇場で様々な演目を行う」と紹介した。このサンジョゼ劇場は現在、存在しない。 ヴェージャSP電子版(vejasp.abril.com.br/materia/o-teatro-sao-jose)によれば、同劇場は1864年にラルゴ・サンゴン ...

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私の2世観について=サンパウロ 平間浩二

 2世観といっても時代的背景及び家族構成、生活環境等によって千差万別であると思う。時代の流れから大別すると、戦前と戦後に分けることができる。このように二分しても、戦前、戦後の2世の人間性、人格等については何ら変わることはない。あえて言うなら、戦後よりも戦前の方が日本的文化の素養を身に着けている人が多いように思える。 戦前の移住者 ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第2回=拳銃自殺図った悲劇の芸人ラモン

竹沢万次の息子ラモンと妻アルレテ(『足跡』より)

 1870年といえば、明治3年――維新政府発足間もないころ、笠戸丸より38年も古い。そんなころにブラジルに上陸した日本人とは、どんな人々だったのか。 藤崎商会の藤崎三郎助以外に、もう一人だけ直接に万次と対話した人物のことが『足跡』に書かれている。1916年にミナス州ウベラーバで畜産技師をしていた石橋恒四郎(つねしろう)だ。 鈴木 ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第1回=明治3年頃に上陸、全伯公演?

ブラジルの竹沢万次と同時期、日本に有名な竹沢万“治”がいた。1868年5月の興行時、竹澤萬治の曲独楽の絵ビラ(見世物興行年表サイトより。≪木版墨摺・芳春画・本清板≫(大阪府中之島図書館蔵/「摂陽観場画譜」五十九)

 国交を開いた「日伯通商修好航海条約」(1895年)が調印される遥か前から、ブラジルに住んでいた日本人が何人かいた。いわゆる「農業移民」ではない。当地初とおぼしき「日本人自由渡航者」に軽業師「竹沢万次」がいる。なんと1870年頃に自らサーカス一座を率いて、リオからアマゾナスや南大河州、さらに南のウルグアイやアルゼンチンまで巡業し ...

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核兵器廃絶の想い日伯で共有=ラーモス平和資料館に分灯=未亡人「最後まで感動づめ」

分灯点火の瞬間。左から小川満里子未亡人、渡さん、アルベルトン市長

 サンタカタリーナ州ラーモス移住地の平和資料館で12日午後、「長崎平和の灯」分灯セレモニーが行われ、近隣の小中学生や地域住民ら約150人が参加した。日伯120周年を記念してブラジル・日本「平和の絆」交流会(中嶋年張代表)が主催した事業で、歌手の井上祐見と息子笠戸丸ともやす君が〃分灯の使者〃として長崎市から運んだ。きっかけとなった ...

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