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サンパウロ 関連記事

コンフェデ杯最終戦=伯西戦で白熱のマラカナン!=ならぬ、ブラジル国内だけど遠くから観戦の記

ニッケイ新聞 2013年7月4日 写真=警備員による身体チェックの様子 写真=フッキの交代シーン。温かい拍手が会場にこだました写真=肩を叩き合った戦友。写真撮影も快諾してくれた  6月30日に行われたリオ市のマラカナン競技場(7万人強収容)でのコンフェデレーションズ杯決勝戦。ブラジル・サッカーファンなら誰もが憧れる伝説のスタジア ...

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篤志家が8万レを寄付=新聞記事で留学の夢叶う

ニッケイ新聞 2013年7月3日  サンパウロ市のラウレンセ・リン・ムラタ君(18)の夢実現か—。今年初め、米国カリフォルニアのスタンフォード大学に合格したが、入学金がなくて諦めかけていた彼の夢が実現しそうだ。  ムラタ君は米国の大学進学適性試験(SAT)で2400点中2350点という高得点でスタンフォード大学に合格したが、入学 ...

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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇前史編◇ (7)=黒幕は大浦兼武農商務相=抜刀隊出身の薩摩系重鎮

ニッケイ新聞 2013年7月2日  レジストロ地方植民前史を紐解いて改めて驚くことは、ブラジル移民史において、ここほど明治の政治経済界の重鎮が関わっているところは他にない——という点だ。   ☆   ☆  1908年に青柳名で桂首相に提出された「意見書」を見ていて気になるのは、やたらとドイツを参考にしている点だ。  例えばドイツ ...

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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相を探る=外山 脩=(21)

ニッケイ新聞 2013年6月12日  3月21日、東京ラジオが、ブラジル政府に警告を発した。  迫害に関しては、かなり詳しいことが調査され東京に伝わっていた。  警告は、日本人に対する警官の無法行為を種々具体的に挙げているが、彼らが家宅捜索の際、強奪した金額が計二十五万円に及ぶということまで告発している。  この警告は最後を「日 ...

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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(25)

ニッケイ新聞 2013年6月18日 サントス追い立て  1943年の7月8日、サントス市内の枢軸国人に、突如、立ち退き命令が下った。  なお、ここで枢軸国人と記したが、資料類は日独人と記しイタリア人を外しているものもある。もともと、イタリア人は比較的、寛大に扱われていた。  立ち退き命令が出たのは、その直前、ブラジルとアメリカの ...

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女性作曲家の作品を演奏=文協ドミコン、30日に

ニッケイ新聞 2013年6月22日  ブラジル日本文化福祉協会音楽委員会(本田ジュリア委員長)が『第63回文協ドミンゴ・コンサート』を30日午前11時から、文協小講堂(Rua Sao Joaquim,381, Liberdade)で開催する。  USP大学博士課程に在籍するピアノ演奏家のエリアナ・モンテイロ・ダ・シルヴァさんと、 ...

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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第93回

ニッケイ新聞 2013年6月12日  児玉と寝る時だけは、コンドームの着用をうるさく言わなかった。その理由を知ったのは、付き合うようになってしばらくしてからだった。彼女と食事をした後、テレーザは錠剤を服用した。 「いつも何を飲んでいるんだ」 「ビタミン剤よ」  児玉はその言葉を疑うことさえしなかった。  トニーニョは自分の寝室に ...

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本紙独占取材!=日本サッカー協会技術委員長 原博実氏=「日系人の応援に応えたい」

ニッケイ新聞 2013年6月18日  コンフェデレーションズ杯開幕戦を翌日に控えた14日夜、日本代表チームの宿泊先であるクビチェッキ・プラザホテルで、原博実・日本サッカー協会技術委員長が本紙のインタビューに応じ、決戦に向けた意気込みや在伯日系人に対する印象を語った。以下記者との一問一答。—試合を直前に控えた練習の内容、選手の様子 ...

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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2013年6月22日  近頃、TVを観ると「ひったくり」や強盗事件を報じるニュースがやたらと目に付く。しかも、女性のショルダーバック強奪も、さながら暴力映画の再現のようであり、とてものほどに防ぎようがない。かよわい女性を殴る蹴るの乱暴も平気の平左だし、今のサンパウロやリオは、平和で穏やかな暮らしとは縁を切り「悪の街 ...

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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(18)

ニッケイ新聞 2013年6月7日  迫害(Ⅰ)  日本軍の戦況と共に、邦人たちが神経を尖らせていた関心事が、迫害であった。敵性国民となった自分たちに、この国の官憲や報道機関、民衆から、どの様な迫害があるか判らなかったからだ。  国交断絶から4日後の1942年2月2日、サンパウロ市内の日本人街、通称コンデ街の住民の一部に、突如、一 ...

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