ニッケイ新聞 2013年11月19日 最初の植民地だけに、つねに排日の矢面に立たされるつらい境遇に置かれていた。そのゆえ、カトリック信徒になることは、「異分子」扱いされやすい社会的抑圧を中和するための大事な手段であった。 桂植民地に住んでいた柳沢嘉嗣(よしつぐ、89、二世)=イグアッペ在住=は「桂には小学3年までしかなかった ...
続きを読む »サンパウロ 関連記事
輸送費で食物価格に差=ブラジルの費用は米国の3倍
ニッケイ新聞 2013年11月13日 ブラジルとアメリカ。どちらも世界有数の大豆やトウモロコシの生産国で、両国の生産者の作付面積や生産性は甲乙つけ難いレベルに至っているのだが、農場を一歩出ると、両国の間には歴然とした差があるという。 運輸業専門のコンサルタント会社、マクロロジスチカ社長のロベルト・パヴァン氏によると、ブラジル ...
続きを読む »航空各社が深刻な経営危機=2年間で50億レの損失=料金値上げと解雇避けられず
ニッケイ新聞 2013年11月8日 国内の航空各社が深刻な経営難に陥っており、業界では過去2年で総じて50億レの赤字を記録した。7日付エスタード紙が報じた。 航空各社が民間航空監督庁(ANAC)に報告したデータをまとめ、7日に公表された航空輸送部門の年報によれば、損失は特に昨年悪化し、前年から2倍以上の35億レにまで上がった ...
続きを読む »カリブ海の〃楽園〃を往く〜第40回県連ふるさと巡り〜(3)=「千代」女将順子さんも〃里帰り〃=下坂さん「予定ドミニカだった」
ニッケイ新聞 2013年11月7日 むっとする熱気のなか、冷房の効いた韓国製のバスに乗る。涼しいが空調がうるさい。視覚に集中し、車窓から市内を眺める。ブラジルと似ており、看板などの西語をポ語に変えれば見分けがつかないだろう。 すると、ガイドの内藤さんが「もうすぐホテルに着きます…ちなみに右側に見えるのはトルヒーリョ大統領の妾 ...
続きを読む »シャドーボックス展覧会=三和学院で、9日
ニッケイ新聞 2013年11月6日 三和学院サンパウロスクール(石岡紳一郎代表)が『第19回シャドーボックス展覧会』を、9日午後1時から同学院(Rua Teixeira da Silva, 539, Paraiso)で開催する。入場無料。午後4時半まで。 シャドーボックスとは、紙に描かれた模様や絵の切り抜きを何層にも重ねて貼 ...
続きを読む »毎日新聞がサンパウロ市支局開設=初の支局長に朴鐘珠さん
毎日新聞(本社・東京)のサンパウロ支局が10月、サンパウロ市ジャルジン・パウリスタ区に開設され、初の支局長として朴鐘珠記者(38、島根)が赴任した。 同社は1970年代頃に一時、当地に支局を開設していたものの短期間で閉鎖し、中南米の取材拠点をメキシコに移していた。W杯やリオ五輪等でブラジルに注目が集まることを受け、今度はメキ ...
続きを読む »日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (65)=輪湖アリアンサ建設へ=永田稠と肝胆相照らす
ニッケイ新聞 2013年10月31日 運命の出会いは、移民史上最初の〃信濃村〃ともいえるレジストロ第4区だった。 その一人は、中南米9カ国を一巡中の日本力行会の第2代会長、永田稠(しげし)だ。1908リフォルニア州で『北米農報』を発行した。第1代の島貫兵太夫の指名を受けて1914年に帰国して会長職を継ぎ、黄禍論が高まって日本 ...
続きを読む »援協評議員会=来年度は新規事業が続々=総予算は約3億446万レ=神内プロ含め13施設で=公益団体認定の永続めざし
ニッケイ新聞 2013年10月31日 写真=評議員会の様子 サンパウロ日伯援護協会(菊地義治会長)は26日、同本部で「第6回定期評議員会」を開いた。36人(委任状9人)が出席し、神内プロジェクトを含む2014年度の「新規事業計画」および、3億446万7千レアルにのぼる「予算案」が承認された。この収入の約86%にあたる2億622 ...
続きを読む »■今週末の催し
ニッケイ新聞 2013年10月31日 土曜日(2日) 歩こう友の会・灯篭流しツアー、正午、リベルダーデ広場前、日曜日も ◎ レジストロ灯籠流し、午後7時、ベイラ・リオ広場 ◎ 懐メロ合唱の集い、正午、熟連会館(R. Dr. Siqueira Campos, 134) ◎ セト祭り、午前11 ...
続きを読む »日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (64)=2軒に1軒が脱耕の危機=ノロエステに向かう流れ
ニッケイ新聞 2013年10月30日 写真=1928年当時のレジストロ市街の様子、現在のPraca dos Expedicionarios(『20周年記念写真帳』15頁) 海興職員だった野村隆輔の目から見ても、《レジストロ植民地として一番危機に瀕したのは大正十二年、即ち一九二三年前後であった》(野村『思い出』30頁)とある。人 ...
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