2月2日(水)
「危険を分散させるためには何種類もの作物を植えたほうがいいと言われていますが、現在、牧畜以外には何かしていないのですか」。講演後、参加者の一人が質問した。
辻光義さん(66)は答えた。「経営者がどうしてそんなにいくつものことをできるでしょうか。私にはできない。一つのことに熱中しても失敗したりします。変えるときは徹底的に研究した後でパッと変えます」
九〇年のコーロルプランをきっかけに大豆栽培を止め、一気に牧場主へと駆け上がることになる。
七四年、日系の大手商社がマット・グロッソ・ド・スル州のマラカジュ―市近郊に二万ヘクタールを用意し、穀類生産プロジェクトを開始した。日系の十三農家の一つとして参加し、千ヘクタールの土地を購入した。七五年には千ヘクタールを買いたし、さらに外部にも千ヘクタール増やした。合計三千を越える土地を手にし、大規模な大豆栽培を行った。商社の斡旋する融資をあてにした自己資本の少ない人たちがオイルショック、ハイパーインフレなどで次々と脱落していく中、ジャガイモ栽培で貯めた自己資金で生き残った。
しかし、脱落していく周りの人たちを目の当たりにし、天候に左右される作物栽培に不安を抱き始めた。行き着いたのが放牧だった。牛は農作物と違い販売のコントロールが可能なことに加え、毎年着実に増えていくからだ。
七八年から持っていた土地の一部を使って試験的に放牧を開始、牧場経営のノウハウを掴んだところで三年後には、本格的な牧場造成に取り掛かった。八三年パンタナルに二千五百ヘクタールの土地を買い、翌々年、千ヘクタールを継ぎ足した。
コーロルプランはそれまで優遇されていた農業者に大打撃を与えるものとなった。預金封鎖、物価凍結、農業融資の金利引き上げ、農業所得に対する税率の引き上げ。辻さんも作物栽培で得た収益の大部分を銀行預金していたため大打撃を受けた。
「繁殖牛は毎年着実に子を産み、頭数は増えていきます。それを利息と考えるなら、銀行預金と比べてはるかに確実な殖産法と言えましょう」。こうして、一切の作物栽培から手を引き牧畜専業に切り替えた。
その後、「とんとん拍子に一万二千ヘクタール、牛三千頭まできた」。向こうから「お金があるときに払ってくれればいい」と自分の土地を利用するよう呼びかける人もでてきた。
「正直に働いていれば見る人は見てくれている。私の能力にあまる物件の交渉でも、相手は私を信じてくれる」。いつかの〃不良青年〃は信頼のおける人物になっていた。
独立当時を振り返り言った。「今日、私が牧場経営できるのも、独立して初期の頃に経済的に苦しい中で、なんとかジャガイモ栽培を続けてきたからだと思います。どんなことがあっても仕事を投げ出してはいけない。続けていなければ、その次はないし、将来はありません」
辻さんは生涯現役を高らかに宣言して講演を結んだ。「私は今六十七歳ですが、何歳になっても息子に仕事を渡す気はありません。仕事を続けることこそ長生きの秘訣であり、人生最大の楽しみだと考えるからです」
(おわり、米倉達也記者)