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ブラジル最北・北半球の移住地タイアーノ(2)=正月は一度も祝わず 野菜作るも需要なし

2月23日(水)

  「確かに土地はよかったよね。肥料なんかもいらないし、三期作も四期作もできるわけだから。けどねえ・・・」
 秀島瑞子さん(一九二八年生まれ。六一年タイアーノ入植。佐賀県出身)は当時を振り返る。
 第一次入植者である三木祥弘氏(現マナウス在住)が「緑―西部アマゾン日本人移住七十年記念誌」に寄稿したものによれば「カフェ、胡椒、熱帯果樹等の永年作物の他、陸稲、トウモロコシ、マンジョッカ、及び小規模の家畜の飼育、豚、鶏、家鴨等、入植者の経営規模は二、三ヘクタールであった。土地肥沃のため予想以上の収量で、ボア・ビスタ(ママ)市場は日本人移住者の農産物で過剰気味となった」とある。
 「野菜を供給するって言ったって、その頃ボア・ヴィスタには二万人もいなかったし、野菜を食べる習慣自体がなかったんだから、どうしようもないわけ。『小鳥じゃないから、葉っぱは食べん』とか言われてね」
 消費する人口がいないのだから農産物が過剰気味になるのは、至極当然である。「当時の人口はわずか一万五千人であり、一平方キロあたりの人口密度が〇、〇六人とブラジル国内でももっとも人口密度の希薄な地域であった」と三木氏も「緑―」に書いている。
 ロライマは北半球のため、雨季と乾季が真逆となる。九月から三月の乾季には、雨が全く降らないうえに、タイアーノは水源が乏しかった。「川はあったが、さびと水ごけで使えるようなものではなかった」(秀島さん)。
 慣れない土地で需要のない野菜を〃供給〃するため、懸命に土地を耕し、井戸を掘った。雨季には自給自足に近い生活。数日かけて町に持って行っても売れない。移住者たちの心情はどのようなものであったろうかー。
 毎日家長会議と称して、男たちはピンガを飲んで荒れた。催しなどは皆無。正月を祝ったこともない。そんな余裕はなかった。
 「そりゃ、個人の努力も必要だけど、ちゃんと調査して条件のそろったところだったら、道も開けたんだろうけどね」
 温和で笑顔を絶やさない秀島さんが、初めて顔を曇らせる。結局、米とトウモロコシのみが主な生産物となり、出荷は州政府の大型トラックに頼った。
 その頃のロライマにおける食材というのは、マンジョーカやバナナ、干し肉といった食材が主で、野菜や果物が一般的に消費され始めるのは後年、国内移住が始まってからのこと。現在でも多くの生産物が他州から輸送されてくる。
 佃さんはボア・ヴィスタ郊外で野菜作りに励んでいた。「シェイロ・ベルジ(ネギとパセリを束ねたもの)はよく売れたね。あとアルファッセやコウベなんかも」。売れ残った野菜は病院や孤児院へ持って行った。
 移住者たちが「雨が降ったら人が来ない、人が来なかったら、肉が売れない、肉が売れなかったら野菜が売れない」と節をつけて歌っていたことを思い出す。
 土井、秀島さんたち第二次移住者が六一年にタイアーノに入植した時には、三家族が残っていた。土井さんが四年の契約を満了し脱耕した六五年には、数家族しか残っていなかった。    (堀江剛史記者)

■ブラジル最北・北半球の移住地―タイアーノ(1)=ロマイマ州唯一の入植地昔、雨季には町まで10日