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『リンゴの里』=開拓者の今=SC州サンジョアキンで出会った2人=連載(下)=幼児からの自立心 開花させた平上さん

5月14日(土)

 「リンゴがサンジョアキン経済の七〇%を支えている。日本人の貢献は非常に大きい。入植した当時の三十年前には全く想像もできなかったことですよ」と話すのは平上文雄さん(和歌山県出身)だ。
 市の人口が約二万五千人。その中で約七十家族、推定三百人に過ぎない日系人口のことを考慮すると、貢献の大きさは歴然だ。平上さんは一九五八年、母(和子さん、現在八十九歳)、兄、妹と共にブラジルに来た。小学三年生だった。長姉の嫁ぎ先の叔父がブラジルに移住していたため、呼び寄せでの移住だ。「お前たち兄弟は右手と左手のようなもの。父さんがいないので、二人で仲良く頑張らなければならないよ」という母親の言葉が自立心の原点となって今の自分がある、と言う。
 平上家は、最初は北パラナのウライに入り、しばらくしてボツカツに移動した。ここで桃の栽培に関わったことから、十三歳になった文雄少年は果物栽培に興味を持ち始めた。
 その後、竹中商会がサンパウロ近郊のジュンジャイに所有する桃農園に移った時に、二年後の六〇年に母県から移住してきた木原好規さん(現・和歌山県人会会長)に出会い、農薬の調合や農機具の扱い方を教えてもらう好機に恵まれた。「子供ながらに進取の気性に富んでいた。自立心の強さは母親の影響だろう」と木原さんは四十年ほど前の文雄少年の思い出を語っている。
 当時は女手だけで家計をきりもりしていたので、平上家の生活は楽ではなかったようだ。しばらくして、マイリンケで桃作りの歩合制の話があったので、木原さんの勧めて移動した。ここでは農地を購入することができ、徐々に生活にゆとりが出てきた。
 この頃には青年になっており、生涯の伴侶となる女性(静子さん)と出会ったのもマイリンケだ。二十五歳だった。静子さん(旧姓・平川)は三世ながら、親の厳しい躾を受けて育ったため、流暢な日本語を話し、日本人感覚を身につけている。伴侶を得、コチア産業組合の組合員となった文雄青年の進取の気性がサンジョアキンに目を向けたのは必然の結果であろう。
 彼もまた、サンジョアキンはリンゴ栽培の最適地というJICA派遣専門家・後沢憲志博士の卓見にあこがれた一人だ。一九七四年八月、コチア青年の細井健志さんら十六名と一緒に第一次入植者としてサンジョアキンに入り、土地探しなどにも関わった。
 一時期、製材産業で栄えたサンジョアキンだが、同産業の衰退を見せ始めた七〇年代初期に、リンゴの国産化政策が打ち出された。そこに日本人の入植が始まったため、町の衰退を免れることができた、と同時に労働力の流出も防止することができた、という相乗効果を生んだ。その後のリンゴ栽培の普及がサンジョアキンに経済効果を呼び込んで現在に至っている。
 文雄青年は、途中でコチア産組の経営方針に賛同できずに脱会し、長兄(博康)と共同経営のヒラガミ農業商会(和名・仮称)を作った。「兄は営業を、私は生産を、それぞれ担当しています」という。
 今ではリンゴや柿などの生産量はサンジョアキン随一を誇っている。「世界に誇れるような高品質の果物生産」を心がけている。〃兄弟仲良く〃という母親の教訓を素直に守ってきたことの価値ある代償だ。
 夫妻は一男三女に恵まれているが、経営規模を考えると、いずれ娘の一人に婿取りをさせたいという、成功者にも跡継ぎの悩みがあるようだ。余暇にはバイクで南米大陸を駆け廻回ったり、絵はがきに採用されるような写真を撮る趣味多彩な人生でもある。(おわり)

■『リンゴの里』=開拓者の今=SC州サンジョアキンで出会った2人=連載(上)=パトロンに恵まれて=コチア青年 〃村長〃格だった細井さん