2005年8月25日(木)
ブラジルにも本当に冬があったのだ、とようやく納得できるような寒さを体験したクリチバで、同じ年の日系三世Mさんに紹介された。史料館の仕事で世話になっている方のお兄さんである。
公務員のMさんはアパートで一人暮らし、クリチバの日系人社会ともそれほど積極的につきあっている様子はないのに、いったいどうやって維持しているのか、操る日本語は確かで、東京で出会えば独身生活を謳歌する日本人中年男性にしかみえなかっただろう。 さわやかで、とても親切で、忙しい合間をぬって、日本風建築のある公園やイタリア人街を案内してくれた。
ある晩私は、彼の一族の話を聞かせてもらった。職種の関係もあって新しく知り合ったひとに家族の物語をせがむのが習い性になっている。彼のおじいさんから始まるその物語を私は堪能したが、最後に彼の漏らした一言がとくに印象に残った。
彼がその流暢な日本語でごくあっさりした調子で言うには、「日本が美しい国だということはよく知っている、でも日本に行きたいと思ったことは一度もない」のだそうだ。意外だった。少しさびしいような気持ちになった。
いつか日本に行ってみたい、というような言葉を、私は勝手にどこかで期待していたらしい。
しかし考えてみれば彼がそう言うのも当たり前だ。私自身、曽祖父が暮らしていたという隣県に対して何ら特別な感情を抱きはしない。越えたのが国境でも県境でも、同じといえば同じようなものではないか。
世代を重ね、長い時間が経過している。人であふれるような歩行者天国を歩いても、東洋系の顔は稀なクリチバの町で一公務員として働く彼は、まぎれもないごく一般のブラジル国民であり、父祖の国とは言っても、彼には別に日本に対して郷愁や憧憬を感じる必然性などないのである。
日本語をしゃべり、日本人の風貌を持つというだけで、たまたま短期間ブラジルを訪れている日本人から同胞意識みたいなものを寄せられ、日本に対するある種の感情の共有を期待されてもとまどうしかないだろう。
だが、広いブラジルで、細い糸を手繰り寄せるようにして彼と私が出会うことになったのは、やはり彼が日系人であり私が日本人であったからである。
人と人が出会うきっかけはいろいろあるだろうが、同じ東洋の島国につながりを持つという縁で彼を知った幸運を、私は素直に喜べばいいのかもしれない。ブラジルにブラジル人の友人ができたのだ、「日本」を仲立ちとして。
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【職種】史料館学芸員
【出身地】高知県高知市
【年齢】40歳
- ◇JICA青年ボランティア リレーエッセイ◇
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- JICA連載(7)=森川奈美=マリリア日系文化体育協会=「気づかなかった素晴らしさ」
- JICA連載(6)=清水祐子=パラナ老人福祉和順会=私の家族―39人の宝もの
- JICA連載(5)=東 万梨花=ブラジル=トメアス総合農業共同組合=アマゾンの田舎
- JICA連載(4)=相澤紀子=ブラジル=日本語センター=語り継がれる移民史を
- JICA連載(3)=中村茂生=バストス日系文化体育協=よさこい節の聞こえる町で
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