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ボリビアサンファン移住地50周年=開拓、その苦闘の末に=連載(中)=礎を築いた西川移民=開拓の歴史に悲劇もあり

2005年9月1日(木)

 「この地を拓き、この地に生き、この地を愛し、この地に眠る霊魂に安らぎを」
 式典当日までに亡くなった二百八十三人の名を刻んだ物故者碑の除幕式と慰霊祭も続いて行われ、参列した出席者たちは一分間の黙祷を行った。
 JICAボリビア事務所の蔵本文吉所長を初めとした来賓、ボリビア国内にある十の県人会関係者が献花し、故人の遺徳を偲んだ。
 信念の人だった―。サンファン農協の組合長も務めた父、菊春さんを六七年に亡くした守田将臣さん(62)。遺族代表者として謝辞を述べるなかで「日本政府関係諸機関の援助はあったが、日本人の気概があればこそ」と話し、移住者の自負を覗かせた。
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 「娘が殺されたんです」物故者碑の前で田島美沙富さん(71)は、溢れる涙をハンカチでぬぐった。
 一九六六年十月二六日、当時四歳だった長女、暢美(まさみ)ちゃんが原始林の中で、仲良しだった吉村良二ちゃん(当時四歳)と共に惨殺死体となって発見された。
 犯人は田島さんの農場で働いていた現地人従業員だった。『サンファン移住地三十年史』によると、この事件を機に、移住地の治安確保の声が高くなったという。
 移住地建設という歴史の裏には、数々の悲劇があった。
 「何で殺されたのか…、
今でも分からない」
田島さんは四十年が経った今でも、腑に落ちない様子で嗚咽をこらえた。
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 「夢中だった。後を振りかえる余裕なんてなかった」
 鎌田キクヨさん(80)は、二人の子供を抱え、西川移民の一員としてサンファンに移住。
 斧一本でジャングルに立ち向かった夫、司さんを支え、子供たちを育てきった。深く刻まれたその皺一本一本から、その矜持がにじみ出る。
 政府間の移住協定が交渉中であったことから、〇次移民、試験移民ともいわれた西川移民。西川利通氏(故人)が計画したサトウキビ栽培と精糖工場建設が当初の目的だった。
 しかし、様々な事情から計画は初期に頓挫、西川氏は五六年、移住地を去っている。
 サンファンの礎を築いた八十七人の西川移民。移住地に残る二十五人が今回功労賞を受けた。
 「開拓当時の話は小さいころから聞いてた。天秤棒で川から水汲んで、夜はカンテラだったって」。鎌田さんの孫、ありさ(26、二世)さんは祖母を誇りに思う。
 五歳まで移住地で過ごし現在、コチャバンバ市に住む西川氏の長女、和子さん(53)も娘、ケイコさん(18)と共に会場に姿を見せた。
 「馬車とか茅葺きの家とか覚えてますね。本当に苦労した五十年だったと思います。おめでとうございますと言いたい」
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 「軽い気持ちで来たのよ。永住するなんてねえ、いずれ帰ると思ってた」
池田(西川移民、旧姓岡部)恵美子さん(69)はあっけらかんと笑う。
 「若い世代がこれから移住地を背負ってくれるでしょ」。移住地は今、世代交替の時期を迎えている。つづく(堀江剛史記者)

■ボリビア・サンファン移住地50周年=開拓、その苦闘の末に=連載(上)=式典に4閣僚も列席=記念碑の揮毫は小泉首相