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『ハルナツ』第4話に感動=岩手県人会に届いた=苫米地静子さんの手紙=連載(下)=古い人間の持つ良さ=「ハルは私たちと同じだった」

2005年12月16日(金)

 今考えると吹き出したくなるようなデマを愚かにも皆信じたものです。その時、私が作った日の丸の旗は、今もタンスの引き出しの奥に閉まっております。お笑い下さい。亡き夫は高倉忠次と同じく「俺は日本人だ」で生きたようです。帰化を嫌い、とうとう日本人で通しました。
 ドラマの中の高倉忠次は、その頃の日本人誰もが持っていた古い、尊いものを演じてくれました。独り日本へ帰り、海軍特攻隊に入り、散華した次男実の遺品を前に「泣くな」と妻を叱り、英霊となった息子を讃え「海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍・・・」と歌うあの場面―それを見て土下座して報告の遅れを詫びていた海野元中佐が挙手の礼をとって聞入ったあたり・・・。画面が見えないほど涙が溢れました。
 また、村に懐かしい巡回シネマがあって、先の皇太子様ご婚礼のパレードが映し出されたとき、起立して拍手で見入る高倉忠次。皇室の存続は日本が勝った何よりの証拠と強調してやまぬ彼。その頑固さを柔らかく受け止めて、とにかくめでたいと乾杯する相手の中山。温かいものが胸を満たす思いでした。
 あの第四話のテープにはそのほか、古い人間の持っている良さが至るところに見られ嬉しいことでした。ハルを見て仄かな慕情を持った中山隆次が、ハルに妹がいることを知って初めてプロポーズの言葉を出すが、両親を看る責任のあるハルは、中山家と相入れぬ父親の信念を思い、到底かなわぬこととあきらめ淡々たる言葉で断るところは実に爽やかでした。ハルはやっぱり私たち同様古い女だと思いました。
 そして長い月日が過ぎたころ、ハルの前に渡伯以来の馴染みの若者山下拓也が現れ、二人が極く自然に近寄った時、婿養子として高倉家を継いでもらう拓也に、土下座して礼を尽くす高倉忠次。このところも今の人たちには理解し難い心情でしょう。私の人生にも似たようなことがあったので特に感激しました。私たちの場合も、父が大船渡(岩手県)の彼の兄に手紙を出し、承諾を得て話が決まりました。
 あのドラマはハッピーエンドで終わっているから、よくできた、との好評もあると思います。
 今、私が思うにハルは年幼くして移住しているから日本に残した妹には限りない慕情を持ったけど、祖国日本への望郷の念はきわめて希薄なものと思われます。だからこそ容易に日本をあきらめ、この国に骨を埋める気にもなれるのです。その点だけは私と異なるものと思いました。
 とにかくこのドラマのおかげで「私も日本人だ」の観念を強く抱くようになれて本当に嬉しく思います。     ◇
 (編注)苫米地静子さん自身も戦中、戦後、高等女学校時代の親友にあてた手紙が届かなかった、そういう体験をした移民の一人である。戦後、人を介して親友の所在が判明、その後、堰を切ったように、手紙の交換が行われた。そうした経緯が『良い思い出は温めて』という一冊にまとめられた。戦前移民にとって「届かなかった手紙」は人ごとでなかった。
 一方、戦後の三十年余は、たとえ「勝ち組」であったことに、ひそかに誇りを持っていても、それを明らかにすることは、はばかられた時代でもあった。その理由の一つは、「勝ち組」即テロ犯と受け取られる風潮があったからだ。時代を経て、真実に近いことがだんだん明らかにされてきた。「ハルとナツ」の父親、高倉忠次が多くの視聴者の共感を得たことは、理解を得た、ということにもなる。(おわり)

■『ハルとナツ』第4回に感動=岩手県人会に届いた=苫米地静子さんの手紙=連載(上)=姉妹の父親の言動に=新たな心のうずき=亡き夫も勝ち組だった