2005年12月27日(火)
実は、日本にとって「交流年」というたぐいのイベントは、なんら特別なものではない。むしろ毎年の恒例行事といってもいいぐらいだ。
九七年四月から九八年三月にかけては「フランスにおける日本年」が行われた。歌舞伎や文楽といった日本の伝統文化の紹介や、囲碁大会や琴の演奏会など一年間で五百もの行事が実施された。仏伯年の三百五十よりひとまわり多い。
九六年にシラク大統領と橋本龍太郎首相が署名した「二十一世紀に向けての日仏協力二十の措置」でこの企画は打ち出された。この文書にはアクション20まであり、福祉、人材交流、経済など実に多彩な項目が並べられている。
アクション10として「両国の生き生きとして豊かなイメージの普及」という興味深い項目がある。
《1》「フランスにおける日本年」(九七―九八年)、「日本におけるフランス年」(九八―九九年)の実施、支援。
《2》パリ日本文化会館を、日本関連情報の対欧州発信基地、日仏の若者の出会いの場として支援。日仏会館(東京)は両国の科学者の交流発展に新たな役割。
《3》第一級の国宝級の美術品等の交流促進。美術品の保存、修復に関する協力。
《1》は日伯交流年という形で実現する。《3》は〇八年にも計画されている。
問題は「箱モノ」のパリ日本文化会館だ。これは九七年五月にオープンした。国際交流基金が海外十八カ国に保有する活動拠点中、最大のもので、「フランスにおける日本年」の中心舞台となった。
パリ十五区、エッフェル塔近くのセーヌ河畔に位置している。薄い翡翠色の総ガラス張りの地上六階・地下五階の建物は、日本が海外に有する文化交流施設としては最大級だ。延床面積約一万平米(有効床面積約七千五百平米)、敷地面積千六百七十平米。地下には最大四百五十人収容の可動床式大ホールがある。
九七年、パリ日本文化会館建設募金委員会は募金目標額としていた二十億円達成し解散した。「日仏協力・官民合同のプロジェクト」という基本理念により、土地はフランス政府からの寄付を受け、建築費は日本側負担、特に民間企業からの多くの資金が集められた。
これを思えば、現在提示されている日伯総合センター案の総工費約五十億円(半額はブラジル側で負担)がいかに巨額かわかる。
ただし、このパリ会館。調べてみると建設を最初に提唱したのは八二年と古い。ミッテラン大統領と鈴木首相が首脳会談で話し合った。
会館設立準備委員会が八八年、会館建設募金委員会が九〇年、建設工事着工が九四年、募金達成が九七年一月、開館が七月と実は十五年越しの建設だった。募金活動だけで七年間かかっている。両国政府主導で資金集めをしたが、それでも容易ではなかった。
日伯総合センター案に対して、〇八年までの二年間で十億円、二十億円がポンと気前良く出るとは考えにくい。
このへん、百周年祭典協会側が一昨年ぐらいから建設案を煮詰めて資金集めも進め、両国政府に上手に根回していれば、五月のルーラ大統領訪日時の共同声明文書に建設案が入っていたかもしれないが、今の段階ではどうだろうか。
同交流基金は独立行政法人化の指針として一般管理費を一割減、海外事務所賃貸料を一五%減など各部門の予算が大幅に削られ、各海外事務所とも「維持費に苦労している」という。〇三年の年間予算が約百八十億円だったが、うち自身の基金運用益からの収入は四十億円ていどで、のこり百四十億円が国からの補助金とされる。
日本政府が徹底的に予算を削減しているおりだけに、外務省関係者をして「箱モノは難しい」と何度も言わせている理由になっているのかもしれない。
ただし、「経団連くりっぷ」九六年一月二十五日号によれば、英国のブリティッシュ・カウンシルの年間予算は約一千億円と報告されており、同年の同基金予算二百億円の五倍を軽く超える。これは、自国文化を外国への普及することに関する外交方針の問題でもある。
どれだけ両国政府が本腰をいれて交流年に取り組むかで、予算規模は大きく変わる。それでも〃打ち出の小槌〃はどこにもない。〇八年がわずか二年後に迫った現在、きちんとした資金調達計画を伴わない巨大事業や「夢のような事業」は慎み、現実主義に徹するべき段階にきているのではないだろうか。 (おわり)