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ブラジル最北・北半球の移住地タイアーノ(4)=現地化生活しつつも日本人の誇り忘れず

2月25日(金)

 電気はなく、夜はディーゼルオイルのランプ。水も五十メートルほど離れた井戸から汲んでいるという。
 「えーと、日本語は分かりますか?」。問い掛けると、歯のない顔に笑い皺を寄せて、「分かるけど話せないよ。もう四十年も使ってないからね。でも日本語で話していいよ」
 以下、記者からの質問は日本語、中村氏の返答はポ語である。
―お幾つですか。
中村 五十・・・(考える)
―何年生まれですか。
中村 一九四九年。
―ということは五十六歳くらいですね。ご出身は。
中村 佐賀県鹿島市・・・後は忘れた
―一緒に来た人を覚えてますか。
中村 土井さん、田代さん、木村さん、片桐さん。最初はみんなでバハコンに住んでたよ。
―ずっとここですか。
中村 十四歳の時、父と姉とベレンに行って、十九歳までピメンタをやってた。その後、ここに戻って結婚した。色んなところへ行ったけど、この場所には八年いるよ。
―この土地は中村さんのものですか。
中村 いや、高尾さん(第二回移住者)の。
―日本のことで覚えてることはありますか。
中村 寒かったこと。ツララなんかもよく覚えてる。学校は五年まで行ったよ。
―日本は懐かしくはないですか。
中村(大きくかぶりを振って)全然ない。全然ない。
―日本の歌とかは覚えてますか。
中村 お母さんがよく歌ってたね。来た年(六一年)に死んだけどね。えーと、島の日暮れの段々畑~♪、島倉千代子だったかな。
―上手いですね。
中村(照れ笑い)
 家の窓から三人の子供たちがこちらの様子を見つめている。
―あの子たちは?
中村 一番大きいのが末の娘、あとは孫。
―娘さんは、何ておっしゃるんですか。
中村 (しばし考えて、娘に向かって)おい、おまえの名前何だっけ?
娘―マリゼッチ。
―・・・。子供さんに日本の話とか日本語とか教えたりしたんですか。
中村 奥さんがこっちの人だからね。全然してない。(後で娘に聞くと、日本で過ごした幼少時代の話や船中の話などを聞いたことがあるという。しかし、アリガトウもサヨナラも知らなかった)。
―ちょっとこの紙に日本語で名前を書いてもらっていいですか(ノートとペンを渡す)。
中村 (スラスラと淀みない―写真上を参照)
―この新聞は読めますか
中村(目を細めて)うーん、分からない。目も悪いからね(眼鏡はもってない様子)。
―何でみんなここから出て行ったんでしょうね。
中村 そりゃ、医者もいないし、ボア・ヴィスタまでも三日かかるもんねえ。でも僕はこっちの生活が合ってた。牛なんか殺して食べたるするの珍しかったしね。
―現在はどうやって生活しているんですか。
中村 週に一回、女房がボア・ヴィスタのフェイラにマンジョーカやバナナ、ミーリョを売りに行ってる。
―中村さんは行かないんですか。
中村 そんな時間はないよ。
―ブラジルには帰化してるんですか。
中村 してない。年金ももらえないと思う。日本政府は何かしてくれるかな。
(沈黙)
―やっぱり、これからの生活に不安はあるんですか。
中村(悲しそうな笑みを浮かべ、うなずく)。
 日本人が来たら逃げるー、と聞いていた中村氏だがコーヒーまで出してくれ歓待してくれた。年齢を重ね、人恋しくなっているのかも知れない、と思いつつ、何故、日本人と会わないのですかー、と問い掛けなかったことを悔いた。
 真暗闇のなか、マローカ・デ・バラータと呼ばれるインジオの集落を通る。発電機の音が響く。
 「さっき、二人でいるとき、話したんだけどね」。沈黙を破るように話し出した田中氏によれば、中村さんは、かつて働いていたところでの補償をしてもらっておらず、周りの人に「(そのことが証明できれば)なんとかなるんじゃないか」と言われるようだ。
 道路に空いた穴を巧みによけながら、田中氏は続ける。
 「でもね、中村さん、嫌だって。そんなことするの。何でって聞いたらね。『僕にはまだ日本人の血があるから』って―」
    (堀江剛史記者)

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