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「自分史」出来た!=安達シニアの指導で(3)=残な戦中、戦後を経て 佐々木正男さん印象深いブラジル生活

2月12日(土)

  「波乱の半生を送った」と振り返る佐々木正男さん(81)の自分史、『若き日の思い出』には、ブラジルに来るまでに経験した戦中、戦後時代のことが詳しく書かれている。
 旋盤工見習いに嫌気がさして軍隊へ志願。「僕は軍隊向きのする人間で、軍隊が気に入った」という。昭和十八年五月から従軍、中国国内を転戦、将兵が栄養失調とマラリアで倒れていく中を歩いた。「悪戦苦闘が続いた。これが日本の皇軍かと言う惨めさであった」。
 終戦後は、二年間の捕虜生活、アメリカ進駐軍のコック、消防署勤務を経てブラジルへ。「月給の安い、無残な姿を親に見せたくなかった」ために、渡伯を決意した。
 しかし、佐々木さんにとって、日本に居た頃よりも、ブラジルへ来てからの方が印象深い。
 一九五六年にブラジルへ来てから四十八年。その内の三十年間は豆腐屋をしている。一九九二年から九八年までサント・アンドレー老人会会長を務め、徳島県人会会長も務めた。
 「豆腐づくりで生計を立ててきた。家を買ったし家族も養った。今でも、保険料だけは息子と娘に支払ってもらっているが、そのほかは全て自分の収入で賄っている」と誇らしげに話す。
 「男は何事も志を貫徹する信念が欲しい」。
 佐々木さんは力強く記す。人生における一番の自慢は、こつこつ練習して取得した大阪北辰書道会・書道五段。初恋の彼女から届いた手紙の、立派な美しい字を見たことがきっかけになり、野戦病院入院中や、捕虜として収容所で過ごした二年間、「もっぱらお習字に精を出した」。
 今では「どこへ行っても劣らない」ほどの腕前で、サント・アンドレー市内の三カ所(文協、学習館、みずほ植民地)で、書道教室を開いている。
 自分史を書こうなんて今まで考えたこともなかった。書き終えても、特に心境の変化は無いが、「自分の一生の出来事を、これ一冊で説明しなくても分かる。まだまだ詳しく書こうと思えば書くことはたくさんあるが、この一冊に概要は書いてある」。
 日本語では、いずれ読まれなくなってしまうため、今度はポ語に訳したものを作ろうか、と考えている。つづく (大国美加記者)
 [訂正] 十日付山田操さんに関する記事中「現在、三人で生活している」を「四人で生活している」、また見出し「姪二人」を「姪の娘ら」と訂正します。

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