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ロライマに賭けた男たち=北緯3度、灼熱の大地で=連載(5)=原住民区で農業=外館雅弘さん

2005年6月7日(火)

 ボア・ヴィスタはかつて、金採掘で栄えた町だが、州の約半分を占めるインジオ居住地に金脈が多くあるとされており、現在は禁止されている。
 往時を偲ぶかのように、市の中心に佇むガリンペイロの像からほど遠くない場所に、市民の台所を支える生産者市場がある。
 マンジョーカやマカシェイラ、シェイロ・ヴェルジなどが並ぶ。トゥクピー入りの黄色いピメンタも大小様々の瓶で売られており、アマゾン文化圏であることを認識させられる。
 サンパウロのフェイラなどに比べ、野菜の種類が少ないバンカが目立つなか、市場の一角に屋根付きの立派な販売場がある。
 豊富な品揃えで評判の「KATODATE」。共同経営者である外館雅弘さんと、加藤奨一さんの名前をもじって命名された。
 「大根や白菜なんか儲からないものもあるけど、数と種類を揃えておけば、お客さんは来てくれるからね」と外館さん。メロン、アセロラ、オレンジなどの果実は独占状態。常時、二十種類以上を提供、市民の食卓に彩りを添える。
 野菜や果物を食べる習慣のなかった五、六〇年代のボア・ヴィスタの人口が約二万人。国内移住の進んだ現在、約二十五万人だという。他州からの移民が増えるとともに、食生活の変化がもたらされたが、タイアーノ移民を始め、日本人移住者がその一翼を担ってきた。
 ボア・ヴィスタから約二百二十キロ離れたヴェネズエラ国境の町、パカライマに住む外館さんは、岩手県出身。八八年、国際協力事業団開発青年四期生として来伯、パラー州のサンタ・イザベル農協の農事部で管理などにあたった。
 独立するため、ロライマ州を視察後、帰国。様々な種や農業関連書籍、測量道具、三十センチで穂を出すという日本種の米「ヒトメボレ」なども携え、ロライマ州サマンに九二年に再入植した。
 「六十耕地くらいあったかな。マラニョンの人やガウーショなんかがいたね。ガリンペイロなんかも入りこんできていましたね」。しかし、加藤さんたちがエンシャーダを振るった土地は、インディオ保護区だった。
 当時の州統領だったオットマール・ピント氏が保護区から外すため、政策として多くの農業者を同地に配耕したのでは、と外館さんは推測する。
 九八年当時、百家族が同地にいたが、立ち退き命令が発令され、多くの農家がFUNAIとの保証金の話し合いに入った。
 六年経って、仕事も軌道に乗り始めていた矢先。新しい人生を同地に賭けていた外館さんは、立ち退きを拒否、残った数人と農業を続けていたが、結局去ることを余儀なくされる。
 「百人を超えるインジオが弓矢とか銃をもってきてね、警察沙汰にもなったんですよ」。簀巻きにされるほどの勢いだった、と形容する外館さん。
 「国際的な圧力がある前は、インジオとも仲良くやっていたんですよ。でもFUNAIの問題で『心の溝』ができてしまった気がする」。自然に表情が曇る。
 パカライマ(インジオ保護区でもある)に移り、現在、百八十ヘクタールを所有する。
 「ほとんどが四つんばいになって歩くような山でね。畑として使えるのは三、四町歩くらいかな」
 最近は有機栽培に取り組む。「ブロッコリーなんかも作れるんだけど、売れないからね。(有機栽培での産物を)マナウスに持っていくこともできるんじゃないかな」と、新しい道を模索する。
 しかし、現在の畑もインジオ保護区であることから、FUNAIから撤去命令が出る可能性も無視できないが、他地方に移る機会を失った―、と加藤さんは言う。
 「本当は米をやりたかったんですけどね。でも、野菜を作っていると、他に目がいかなくなってね」
 九七年に現地で知り合ったガウーシャと結婚。七歳を筆頭に四人の子供を抱える父親でもある。
 「いびつな州ですよ。金で大きくなって、中央政府のプロジェクトなんか当てにしてたら、経済は自立していかない。ここじゃあ、農業くらいしか道はないんじゃないかな」。人生を賭けた同州の将来を見据える。(つづく)
    (堀江剛史記者)

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