2005年10月18日(火)
旅も後半にさしかかり、ようやく快晴を迎えた土曜日、イリェウスから南へ六十三キロ離れたウナの移住地へ向かった。
ウナはポルト・セグーロから二百キロ、サルヴァドールから五百二十キロの海岸沿いにある、人口三万の小さな市。天然ゴム、カカオ、ピメンタ栽培が主な産業だ。
一九五三年十月、この地に三十八家族・二百六十四人が入植した。続いて五六年に十一家族、五七年に一家族が加わったが、土地の悪さから、ミナスの移住地に十五家族が集団脱耕するというできこともあった移住地である。
バスが日本人会館へ到着すると、十二家族、二十六人のウナ日本人会のみなさんが一行を出迎えた。入り口には『ふるさとめぐり 歓迎』の文字が大きく掲げられている。まるで初めて会ったのではないように手を握り、肩を叩いて訪問を喜ぶウナのみなさん。
「ここで日本人が集まるのは久しぶり」と立石武士会長(青森)が話す通り、会館の外では「何があるんだ」と興味を持って寄ってきた地元の非日系ブラジル人が中の様子を伺っている。
移住地の先没者三十一人の焼香は、CDに収録されたお経が流れる中、行われた。祭壇に置かれた全員の写真にそれぞれが心を込めて手を合わせた。
その写真の中に、同じ景色で写る、家族らしき三人の姿があった。三人は十年前の十月、家に押し入った強盗によって命を奪われたのだという。
「十年経った今でもまったく心は落ち着きません」と遺族は顔を歪ませる。
「日本人で集まるのも、家を空けるのが心配で少なくなった」と立石会長は話す。
また、日本語学校を手伝うため、今年四月までサルヴァドールで日本語教育に携わり、六月に再来伯した栗誠治さん(東京)は、「ここへはじめてきたとき、地元のブラジル人とここの日系人との関係に違和感を覚えました」と話す。「警戒しているだけでなく、元気もない。ここの人に自信を持ってもらいたい」。それが小栗さんの来た理由だ。
小栗さんに協力を依頼したのは立石会長。「日本人会が暗いままではいけない」と改革を決心し、昨年九月、活動停止状態だった日本人会の会長になり、今年五月に十五年ぶりに日本語学校を再開した。
「どうにかみんなに元気を出してもらいたいんです、そのために何としても日本人会や日語学校を復活させたかった」とゆっくりと噛みしめるように、熱意を語る。
「実は会館も草に覆われて、使える状態ではなかったのを二カ月前に掃除したんです」と高橋勝さん(北海道)。
また昔のように日本人で集まることを嫌がる人はいなかった。そんな機会をみんな待っていたのだ。
「だから今回はみなさんがいらっしゃると聞いて、元気をもらおうと、大変楽しみにしていたんです。九十歳を過ぎたおばあちゃんも『自分がまんじゅうを作る』と張り切って準備してくれてましてね」(立石会長)。
会長らからそんな事情を聞いて、ふるさと巡り一行も、何かできることはないかと南雲団長を中心に考えた。
話は夜、立石会長夫妻、小栗先生を滞在先に迎え、場所を滞在先のホテルに変えて続けられた。
つづく(秋山郁美記者)
■移民のふるさと巡り=南バイーアの移住地へ=連載(4)=気さくなシロウさん=ガイドとして随行3回目
■移民のふるさと巡り=南バイーアの移住地へ=連載(3)=パパイアほお張って=地域最大の移住地で交流