2006年7月13日(木)
〈農業研修センターから、伯法人対策室に異動〉
一九八〇年前後のこと。群馬県内にあった、旧国際協力事業団の農業研修センターに赴任していた、小松雹玄元JICAブラジル事務所所長に、そんな内容の辞令が発令された。
「いったい、どういうことだろうか?」。そう訝って事情を確かめると、事業団のブラジル現地法人ジャミックとジェミスの撤退をブラジル政府から求められていた。
小松元所長は、両法人整理の仕事に携わることになったのだ。
ブラジルに移住した日本人に便宜を図るためにつくられた、植民有限会社(ジャミック)と信用金融株式会社(ジェミス)の解散。それは移民に対する考え方が、大きく変わるということを意味していた。
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異動に先立った、一九七九年十二月十七、十八両日。ブラジリアで第十三回日伯移住混合委員会が開かれ、ブラジル側委員が重大発言をとばした。
「日本政府出資の会社がブラジルで活動しているのは、ブラジルの民法上違反であり、すみやかに会社を閉鎖し、活動を停止してほしい」。
日本側委員にとって、まさに晴天の霹靂(へきれき)だった。この発言は、民法を根拠にしたもの。反駁の余地はなく、相手の主張を受け入れざるを得なかった。
混合委員会は、日伯移住協定(六〇年調印、六三年発効)により設立された。
移住にあたって、発生するであろう種々の問題に対して、解決策をさぐるのが目的。日伯両側でそれぞれ三人の委員が選出され、不定期に会合が持たれていた。
両法人の営業許可に注文がつけられたのは、五六年の発足以来、初めてのことだったという。
翌一九八〇年と言えば、外国人法が発効する年。外国人の扱いについて、ブラジル政府の見解が法律という形で示されるわけだ。
「単純労働の移民は、もう必要とされていないんだ。技術のない人の移住はできない時代になった」。法人整理の仕事を始めるとき、小松元所長はそんな印象を持った。
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『ブラジル日本移民八十年史』によれば、七九年~八〇年にかけて、日本から工業移住の申請が十四件提出された。ブラジル労働省移民局は資格検査の結果、条件を満たしていないと却下した。これに対しての同史の解釈はこうだ。
「ブラジル経済情勢悪化に伴う失業者の増大が直接の契機とはなっているものの、そのほかに伝統的なブラジルの外国移民受入れ政策が転換し、もはや積極的な移民受入れ国でなくなったことを示している」(原文のまま)。
新しい血が入らないと、コロニアが縮小してしまう──。移住の道を閉ざさないでほしいと願った、移住者がいたことは確か。
小松元所長は「まだ独立していない移住者も存在。融資してくれる金融機関が必要だった」と明かす。
移民受け入れは農拓協、融資は南銀が業務を引き継いだ。資産は有償・無償で、日系団体などに譲渡された。約二年半の移行期間を経て、八一年九月、ジャミックとジェミスは二十六年の歴史に幕を下ろした。
<国内労働者を優先し、外国移民の導入は控える>
一九三〇年代から識者の間で、再三提唱されてきた。とはいえ、戦災移民などがブラジルに渡ってきた。
外国人法が発効したこの時代、移民をコントロールする時代に入っていた。
(つづく、古杉征己記者)
■移民政策=時代に対応、修正へ=連載(1)=密入国者あとを絶たず=国境警備は混沌
■移民政策=時代に対応、修正へ=連載(2)=国内労働者の保護優先=たとえ政権変わっても