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移民のふるさと巡り=南バイーアの移住地へ=連載(6)=手作りの祭壇に合掌=タペロア=日本人会で無常実感

2005年10月19日(水)

 「あと二十年はどうにかなると思います」。張りのある声、しゃんと伸びた腰、危なげない歩み、原稿を眼鏡なしですらすらと読み上げる視力、そして周りを驚かせる食欲。「あと二十年は」というのも納得の西本伍一さん(山口)は九十六歳。
 戦後第一回の移住で、一九五三年にウナに入植した。
 西本さんはそれまでに、二十八歳でメキシコへ移住、五年後満州へ、二年後樺太、そしてシンガポールとさまざまな国を渡った経歴を持つ。
 土地が悪かった、作物の病気が流行った、という問題が挙げられる中で「ここは年中太陽があって、極楽」と言い切れるのは、それまで相当の苦労をしてきた西本さんだからだろう。
 「みなさんお元気で」と送り出された一行はバスの中、感心しきりであった。
 ふるさと巡り初参加という松島巧さん(岡山)、節子さん(同)夫妻は、今回新聞に掲載されたふるさと巡りの記事で「ウナ移住地」の文字を見て参加を決めた。節子さんが十三年前東京の病院で働いていた際、同じく出稼ぎでいた舟戸寿江さん(兵庫)が「バイーアのウナ移住地に住んでいる」と話していたのを思い出したのである。「これは行かなくてはと思いました」とそのときの驚きを節子さんは話す。
 「連絡して、会いましょうと話していたので、見たときはお互いにすぐわかりました、変わっていませんでしたよ」。日本で出会った友と、ブラジルの小さな移住地で再会を果たした松島さんは、笑顔で喜びを語った。
 翌朝、バスは最終目的地、サルヴァドールへ向けて出発した。イリェウスから四百五十八キロ。途中にタペロア移住地がある。今回三つ目の移住地訪問である。
 タペロアはトメアスからの再移住者が多く、七〇年頃から始まった新しい移住地であるが、そのため居住地が集合していない。現在二十家族、約百人がピメンタや丁字、マンゴスチン等の栽培や商店を経営して生活するが、日本人会に入っているのは三家族のみ。
 ガイドからは「小さな日本人会なので五人集まっているくらい」と聞いていたが、丸山光夫日本人会代表(青森)の呼びかけで、この地域に住む約二十人が会場の入り口で待っていてくれた。
 「少ない人数で大勢をもてなすのは慣れているんですよ」。振舞われたジュースやかりんとう、おかき、饅頭、ほとんどを一人で準備したのは丸山代表の妻セツさん(青森)。セツさんは光夫さんとともに六〇年にベレンに入植したが、十年後光夫さんがタペロアを視察、翌年家族で移った。
 その後バイーアはサンパウロやパラナからの再移住が流行したため、丸山さんらはボランティアで視察者を案内したりもてなしたりしていたのである。
 手作りの祭壇には、タペロアで亡くなった十八人ひとりひとりの名前が紙に書かれベニヤ板に貼られている。藤倉すみこさん(北海道)は丁寧に手を合わせた。「移住地の大きさは関係ないですね」。
 ここまでに二つの移住地を周ってきて「成功者が多かった」「勢いがあった」「温かみがあった」「元気がなかった」などの感想が聞かれたが、どんな場所でも人は生きて死ぬということを実感するタペロア移住地であった。      つづく(秋山郁美記者)

■移民のふるさと巡り=南バイーアの移住地へ=連載(5)=この日を待っていた=ウナ移住地=一行に元気もらう

■移民のふるさと巡り=南バイーアの移住地へ=連載(4)=気さくなシロウさん=ガイドとして随行3回目

■移民のふるさと巡り=南バイーアの移住地へ=連載(3)=パパイアほお張って=地域最大の移住地で交流

■移民のふるさと巡り=南バイーアの移住地へ=連載(2)=16世紀入植の村にて家々に慣用句の由来発見

■移民のふるさと巡り=南バイーアの移住地へ=連載(1)=顔見知り多い参加者=まず日本料理で準備運動